聖教国ネメシス――高潔にして潔癖なる正義と信仰の国。
総ゆる悪を許さず、神の名の下に正しき秩序を求めんとする理想の遂行者。
混沌世界におけるかの大国の名声――プラスのものだけではないが――と評価は概ね一致している。
価値観の合う人間にとってみればそれは大層に素晴らしいものであり、そうでない人間にとっては行き過ぎた毒と捉えられがちだ。
唯、重要なのは少なくともネメシスの人間の多くは『単に善良』なのである。
生まれついた国の、育てられた親の、社会の望んだ『正しい姿』に疑いを持たず、過ぎた我欲を律し、教科書教本のような正義の振る舞いを心がけてさえいる。それが半ばネメシスを覆う空気感に強いられたものであったとしても、善き行いに、信仰を全うしようとする心に嘘も貴賤もあるまい。しない善よりする偽善が圧倒的に有意義なのはどんな世界でも同じ事なのだから。
但し。
ネメシスにおいて『単に善良なのは圧倒的な大多数だけに留まる』。
裏を返せば、そこに在る少数は必ずしもネメシスの――神の求めた美徳の上には存在しない。
G線の上で踊るアリアが美しき例外であるように、滅私の国にも何処までも我欲的な人間も存在する。
そんな中の一人、
「――はぁ、退屈」
白く美しい仮面を被った聖女は人気の無い大聖堂でお祈り代わりにそんな溜息を吐き出した。
先に捕まえた『小鳥』はもうぐったりして動かなくなってしまった。
折角の『異端』だったというのに、あんなに脆いなんて詐欺みたいなものだ。
「やっぱり、ベルナルドよねぇ」なんて呟いてみても、鳥籠を逃げ出した文鳥は今の所は帰ってくる心算はないようだ。彼がローレットなる面倒くさい組織に関わっていなければやりようなんて幾らでもあるのだが。
……流石に峻厳のライオンちゃんに睨みつけられるのはアネモネ・バードケージでもぞっとしない。
「……でも、退屈ですわあ」
独白で繰り返された言葉は圧倒的な真実そのものであった。
最も天義らしくない人物でありながら、天義で聖女の名を冠する彼女はその実、この国の国民性をハッキリ軽侮している。
従順であり、素朴であり、禁欲的であり、良く出来た人形のようである。それ自体は話が簡単で良い場合もあるのだが、彼女に言わせればそれは全くもって余りにも人間らしさという部分に欠けるではないか――
『不正義』で断罪された何処ぞのオジ様の方が余程気骨も魅力も感じるというものだ。興奮する。
どうにかして酷く持て余す時間を潤いのあるものに変えなければいけない。
彼女は強くそう考え、柳眉を寄せて思案の表情を作り出す。
――質で駄目なら数かしら。
やっぱりハレムがいいかしら。羽を毟って閉じ込めて。泣いて喚いて許しを請うて――
「とても素敵な考え方ですわね」
そんな時、掛けられた一つの声が彼女を現実に引き戻した。
「――あら、こんな時間に何方かしら。懺悔にでも参られたのでしょうか」
声の主に『聖女の顔』を向けたアネモネは通り一遍――そんな言葉を口にしたが、『拘束の聖女』たる彼女は警戒を全開にその魔力を全身に纏わせていた。夜の時間は彼女の時間。十重二十重に貼られた人避けの手段は只の客をこの場まで通す程甘くはない。
「生憎と懺悔の予定はございませんけれど、多少は興味を惹かれるご提案位は出来ましてよ」
目を細めたアネモネは『自分の頭の中を覗いたような事を言う』黒衣の女に美しい聖女の顔を歪ませた。その変化は一瞬のものではあったが、彼女の傲慢さ――非常なプライドの高さと頭と勘の良さの両方を証明していると言える。
「この国は、何処か病的でしょう?」
「……」
「病的な程に白く、白く。人間に必要な――そう、重要なパーツ(よくぼう)が欠け落ちているかのよう。
望む事は愚かかしら。求める事は罪かしら? 純白の中の異物は悪ですかしら?
貴女のような『人間らしい方』はそれがつまらない。貴女は聖女だからここに『拘束』されていて、何処までも退屈と。
当然の事ですわ。大人は人形遊びだけでは飽きてしまうものですから」
「……何の事だか、さっぱり。特に御用が無いようでしたらば、お話は明朝にでも」
躱すアネモネに女はクスクスと笑う。黒いベールの向こうの美貌は仄暗く、二人は(少なくとも見た目は)全く対照的だった。
「ふふ、本来今夜はスカウトのようなものでしたのですが。
貴女はやはり『我』が強い。まぁ、今は多くを語る必要はないのです。唯、そうですわね」
黒衣の女はそこで言葉を止めてから、二拍を置いてその先を吐き出した。
「――もし、貴女が近く訪れる劇場を愉快と思ったなら。
また――もう一度位は会う機会もあるかも知れませんわね?」
当を得ない言葉が静やかなる大聖堂の空気に解け、瞬きをする間に女は忽然と姿を消している。
残るのはまるで変わらない何時もの風景だけだ。
「……」
幻覚? まさか――とアネモネは苦笑した。
つい先程まで頭の中で喚いていた人外の声が幻覚(おんな)と無関係とは思えない。
彼女は生まれてこの方、誰かを、何かを恐ろしいと思った事等無い。
それは今も変わらず、この先も恐らく変わるまい。
だが、彼女は気付いた。
気付いてしまったのだ。
こんな季節だというのに、自分の肌着がジットリとした嫌な汗に濡れている事に――