暗い闇の中、一組の男女が佇んでいる。
常人には目視しかねる深い闇の中、『常人等一瞬で蝕みの中に飲み込んでしまうような泥の中』、男女は涼しい顔を崩していない。
故に異常。故に危険。泥をものともしないのは、彼等が泥そのものであるからだ。
周囲を異界に変える根源こそ、麗しい見目を裏切る二つの邪悪に違いない。
「『常夜の呪い』ね。永遠の惰眠を望む等、やはり劣等は劣等に過ぎないな」
「それも、同胞の為す事でしょう? イノリ様のお望みに叶うならば、それも一つ」
有翼の男の言葉に黒衣の女は温く笑う。
穏やかでゆっくりとしたその語り口は嗜める調子と軽侮する調子の両方をたっぷりと含んでいる。
成る程、彼女が『同胞』と称する魔種の何も全て言葉の通りという事になろう。
彼女にとって『同胞』の為す事等、『イノリ様』のプラスになるかどうかの価値しかないのだろうから。
「フン、心にも無い事を言う。
しかし、常夜は『怠惰』だろう? カロンの手出しする場所では無い筈なのだがね」
「まさに。面倒臭がりのあの子がわざわざ外に首を突っ込むものですか。
『魔種』は元になった素体の自由意志を強く残します。
つまりは『常夜』はこのネメシスに何かの因縁か――用があったという事でしょう。
第一、魔種の活動に完全な制御が効かないのはルストこそ一番知っているのでは?」
女は男――ルストをからかうようにそう言った。
「貴方がイノリ様の言いつけを守った事が幾度ありますか」。そう言う女をルストは鼻で笑って一蹴する。
「ベアトリーチェ。お前達の如き下位とこのルスト・シファーを同一扱いするのは辞めて貰おうか。
お前は私達七罪を『被造』としたいようだが――私はそれを是認していない。
謂わば私は奴のアルター・エゴ。奴も私のアルター・エゴに過ぎん。同一なれば、上下等ある筈も無い。
気に入らなければ従う道理も無いし、どうしてもと言うならば『どちらが主体か雌雄を決するまで』」
ルストの物言いにベアトリーチェは肩を竦めた。
ルストの言葉は全てが間違いでも無いが、全てが正しい訳でも無い。
只、その正当性をこの男と論じ合う無意味を彼女は重々知っていた。
「……まぁ、良いです。それより本題。
『常夜』が好きにするのはそれはそれで良いでしょう。
貴方は先を越されたと憤るのでしょうが、私は私で仕掛けを進めてまいります。
第一、『勤勉なる正義』ばかりを旨とするこの国に『怠惰』は棲みかねていた。
ならば、それも人の『強欲』で良いというものではありませんか」
「……」
「それにそもそも。『他ならぬ貴方が先鋒で動き始める筈が無い』でしょう?
常夜にせよ、私にせよ同じ事。尤も、勿体をつける名優は出番すら無いかも知れませんけれどもね」
言葉にルストはもう一度「フン」と鼻を鳴らした。
己が以外の全てを軽侮し、見下すその姿はまさに『煉獄編第一位』の姿に相応しい。
己が力と階位を心から信じ切っている彼は、成る程――自称ならずとも『他とは完全に異質』になろう。
「直に舞台の幕は上がるでしょう。ネメシスの全てを巻き込む、大きな、大きな舞台の幕は。
悲喜が入り混じり、忘れられた人間性は目を覚ます。
人形達は踊り出し、整然を嫌う狂騒曲は大きな熱を帯びるでしょう。
……この国は、あの街は私にとってはこの混沌で一番許し難い。理由は、言わなくても分かるでしょうが」
ベアトリーチェは「貴方はむしろ相性が良いのでしょうけど」と言葉を結んだ。
話は概ね纏まっている。ルスト・シファーは『傲慢』の名にかけて先鋒を嫌い、ベアトリーチェ・ラ・レーテは動かなければならない理由と、動きたい理由の双方を持ち合わせている。常夜とは特に協調関係はないが、統制の綻び、国の乱れ、かの常夜はその先駆けとして丁度良い塩梅といった所なのだ。
「ああ、只一つだけ」
ベアトリーチェは赤い唇、口角を皮肉に持ち上げてルストに言う。
「貴方も余り滅多な事を言わないで。次、イノリ様に弓を引くなんて言ったら、私」
葬送の歌は欲深く、仄暗い。例えそれが同胞以上の『兄弟』だとて、女の情は止められない。