海洋が『絶望の青』の真実に揺れる頃、ゼシュテル鉄帝国もまた激震に晒されていた。
それはきっと此の世の悪夢に違いなかった。
それはきっと目の錯覚と思う他はない――驚天動地の光景に違いなかっただろう。
白煙天を覆い、鉄車の軋音が大地をゆらす。
巨大な生物のごとく頑丈な脚をはやした複雑怪奇な大聖堂が、村を踏み潰して進む様。
それは『信じられない位に冒涜的であり、ゼシュテルそのものを示すかのように暴力的であった』。
その道中にあった哀れな生物は、建物はまるごと内部へ放り込まれ、大量のカッターやアームで分解され、全てこの巨大移動要塞を構成する資材、塗料や糊へと変えられていくばかり。
最初に言ったのは誰だったか。
唯その呼び名は酷くしっくりと来るものだった。
この移動要塞はその様相をさしてこう呼ばれたのである。
――歯車大聖堂(Gear Basilica)
大聖堂が祈りの歌を捧げている。
聖歌を奏でる巨大パイプオルガンが、まるで大勢のシスターが清らかに歌うかのように合成音声をエンドレスリピートしていた。
――主よ、力なきは罪なのですか。主よ、何故この子が吹雪に凍え、飢えて死なねばならなかったのですか。私はこの子に一欠片のパンすら与えられなかった。主よ、この子の死が無駄でなかったと仰るならば、どうかその証を。
掲げられたシンボルには、まるで磔刑に処された聖人のごとくアナスタシアが張り付いていた。
否、『組み込まれていた』と言うべきだろうか。
伸びた無数の管が彼女を縛り、突き刺さった各部より何かを吸い上げていく。
彼女の鼓動にリンクするように、聖堂の複雑怪奇に入り組んだシャンデリアが明滅した。
さながらその地獄のような光景は聖女の慟哭を示す讃美歌の如く。
ロスト・テクノロジーと哀しき魔種の織り成す嘆きと絶望はとめどない血の涙を流しているかのよう。
あの略奪の日から、全ては始まっていたのかもしれない。
兵のため国のため、心と罪なき弱者を見捨てた夜。
地位も名誉も財産もすべてを捨ててスラム街へと逃げてからも、あの夜が消えることはなかった。
それは追いすがる罪であり、忘れ得ぬ罰である。
お前は誰も救えない。
お前は誰も愛せない。
お前は誰も解らない。
聖女と呼ばれ善行を石積みのように重ねても、罪と言うなの悪魔がそれを戯れた子供のように蹴散らしていくのだ。
そしてあの日、理解した。
お前は――いや。
「『私』は誰も救えない」
目を開けた、黒衣のアナスタシアが虚無を呟く。
「だから、もう一度、もう一度だ。あの夜からやり直す」
この巨大な怪物と……『歯車大聖堂』とひとつになったアナスタシアは大本の『原動力』である。
強大な魔種としての力が、本来大量の生贄なくして動くはずのない移動要塞を動かしているのだ。
それはさながら彼女の願いのように、聖堂の形をとった。
それはさながら彼女の業のように、聖堂をどこまでも大きくした。
それはさながら彼女の贖罪のように、全てを飲み込んでひとつのものへと変えていった。
「我が国、ゼシュテル鉄帝国首都スチールグラード。あなただ、あなたのせいだ。
あなたが全てをため込み続けたがゆえ、弱者は寒さに凍え飢えなければならなかった。
あの略奪の夜でさえ……あなたがため込んだ全てを解き放ち平等に分け与えていたならば、あんな夜はおこらなかった」
黒い油が、両目からだくだくと流れ出る。
「あんな夜はおこらなかった! おこらなかったんだ! あなたさえ! あなたさえ平等であったなら! あんなことは、しなくて済んだはずだった!」
やりなおそう。
全てを食らって、ひとつのものに変わるのだ。
このなかでは……歯車大聖堂の中では全てが平等だ。
平等に生き、平等に動き、平等に稼働する。
巨大な移動要塞が、その脚をスチールグラードへと向け、動き出した。
全てを食らうために。
全てを平らにするために。
きっとそれが、平和というものなのだと、信じて。
願いが遠い事は分かっていても。聖堂一つで世界は変わらない事を知ってはいても。
嗚呼、盲目。見たくない世界なんてもう見ない。聞きたくない言葉なんて聞こえない。
「よわいから、なにひとつかなわない――」
――歯車大聖堂がスチールグラードへ向けて進撃を開始しました
――歯車大聖堂から放たれた兵が各地で略奪を始めています