――主よ、慈悲深き天の王よ。彼の者を破滅の毒より救い給え。
毒の名は激情。毒の名は狂乱。どうか彼の者に一時の安息を。永き眠りのその前に。
たとえばそれは家族の願いであった。
たとえばそれは世界の嘆きであった。
ただ当たり前の幸せを、きっと世界の誰もが望んでいて、みんなが少しずつ優しくなれば、きっときっと、世界はずっと素敵になれる。
だけれど。
「そんなのは、無理なんだよ」
――主よ、天の王よ。この炎をもて彼らの罪を許し、その魂に安息を。どうか我らを憐れみ給え。
世界が揺れた春先の大地。
海洋王国が大号令の大波に揺れ、深緑が妖精たちとの語らいを始めたころ。
いまだ雪の冷たさがのこる鉄帝の風が、移動要塞『歯車大聖堂』がゼシュテル首都スチールグラードの直前でどっしりと腰をおろし、停止していた。
首都の守りを固めていた鉄帝軍兵士たちや、その依頼を受けてかけつけたイレギュラーズが、一様に半壊した大聖堂を見上げ、そして武器を下ろす。
唐突な破壊と略奪におびえた人々が、そして怒りをあらわにしていた人々。
一転して訪れた静寂と青く突き抜けるような空。
大聖堂の吹き上げていたもうもうとした煙が風で穴を穿ち、筋状の光が金と白の建物を照らしていく。
誰もが理解した。
これで、終わったのだ。
――信仰とは、実は無力なのかも知れませんわね。
かつて聖女が、悪魔の力を借りる事でしか平和を実現できなかったように。ですが……
冷たい大地の上。いびつで巨大な聖堂のなかで。
今日、ひとりの聖女がこの世から消えてなくなった。
彼女はかつて多くの人に慕われ、多くの人生を壊し、多くの人を死に至らしめた。
彼女はかつて多くの人に慕われ、多くの人生を救い、多くの人を助け手をさしのべた。
あのときも、あのときも、あのときも、ずっとずっと、彼女は人のために憤り、ひとのために戦い、ひとのために祈った。
その結果として、形なきむくろと巨大過ぎる聖堂が、この世界に残ったのだ。
きっとそれが、彼女のもったただ一つの、そして唯一絶対の、業の形であったのかもしれない。
――聞いたのです。魂を焦がすような祈りを。託されたのです。どうかあの人を救って欲しいと。
ならば、それに応えぬ理由がどこにありましょう。
救いは無い。
何処にも無い。ひとすじも無い。
心優しき傷んだ聖女は死に、涙は枯れた。
彼女を知る誰もが、彼女を慕った誰もが消せない傷を負い、歪みは白日の下に晒された。
救いは無い。ひとすじも無い。
何も無い――だが、果たしてそれは本当にそうだろうか?
鉄帝の人々から多くを奪い去った事件は深くつよく、この土地に刻まれた。
鉄帝軍や人道団体クラースナヤ・ズヴェズダー、その他この事件に関連する様々な集団や個人が、この事件に対して何かをしようと動き始めることになる。
動力が死に二度と動かなくなった歯車大聖堂は『一人の墓標には大きすぎる』と改修がなされることになった。
クラースナヤ・ズヴェズダーをはじめとする多くの団体の施設および住居となり多くの人々の受け皿となるだろう。
屈強で剛毅な鉄帝民はこの壮大な建造物を観光名所にでもして祭りのひとつでも開くだろう。
聖女の願いは、大きすぎる破壊と犠牲の上に、皮肉にも、実現しつつある。
泣かないで、アナスタシア。
君の愛した者達に、君の傷みの日々達に。
君の望んだ後悔達に、君が見たあな遠き夢達にも――光あれかし。
※――鉄帝の歯車大聖堂(ギアバジリカ)およびモリブデン事件はローレットの活躍により収束しました。