「……ク……」
薄ぼんやりと寝ぼけた頭に懐かしい声が響く。
「……イク」
鼓膜を優しく揺するのは澄み切った女性の声だ。
名を呼ばれる事が光栄で、何処までも嬉しかった――あの声だ。
遠く、遠く。擦り切れてしまいそうになる程の昔日。
『覚えているその声が本当のものかも分からない』位の胡乱の彼方。
果たして君は、本当に君の声で話しているのだろうか?
吾輩のこの思い出は、絶望の海に揺蕩う哀れな海賊が作り出した妄想ではないのだろうか?
「ドレイク!」
――三度目、これまでより強く発せられた呼び声と共に頭に衝撃が加わった。
痺れを切らした『彼女』は、これ以上の時の浪費を認めなかったという事だろう。
「……乱暴だねぇ、陛下は」
「妾を呼びつけておいて居眠りしておるとは、そなた随分な身分じゃな!?」
「いや、申し訳ない。此度『大号令』の準備に昼夜追われる身でしてね」
「えっと、それを言われると弱い……が、そーれーでーもーじゃ!」
「まぁ、唯の言い訳なんですけども」
「ドレイク!」
腰に手を当ててぷりぷりと怒るその姿は威厳を何処かに忘れてしまっているかのようだ。
白い顔(かんばせ)を血色に染める今日の彼女の体調が『悪くない』事に安堵した。
「出航は本当ですとも。此度こそ。吾輩は必ずや『絶望の青』を攻略し、海洋王国の、陛下の悲願を達成してみせましょう」
「うむ。そなたの実力には期待しておる。妾の――我等が『希望』を頼むぞ」
「海賊風情の背負えますものならば」
彼女の言葉に吾輩は――表に出す態度は兎も角――心身が引き締まる想いだった。
本来ならば自分のような――そう海賊風情が王国の一大事業たる『大号令』に提督として参画する事等無かっただろう。宮殿で海洋王国女王に謁見出来る道理が無い。しかし、彼女は――女王エリザベス・レニ・アイスは卑しい身を嘲る全ての人間を跳ね除けて海賊ドレイクに格別の恩寵を与えてくれた恩人だ。
「女王陛下には是非、海洋最強のガレオンに乗るが如し安堵を……
おお、かの海もきっと陛下の威光に屈しましょうや!」
「その安請け合い、流石ドレイクじゃ! 本当にそなたは面白……」
エリザベスはそこまで言った所で酷く顔を歪めていた。
胸の辺りを抑え、激しく咳き込む。青い顔をした侍医が慌てて駆けより、その身を支えて処置を取る。「お休みを!」と悲鳴に似た声を上げる彼を力無く制した彼女は言う。
「……すまんなぁ、ドレイク」
「何を謝られますか」
「そなたに期待をかけ、希望を口にしておいて――
――その癖、妾はそなたの帰りを待ってはおれぬかも知れぬ」
「馬鹿な事を」
本当に、馬鹿な事を――思わず吐き捨てるような声になってしまった事を反省した。
胸の内を焼き焦がすのは焦りであり、恐れである。
絶望の青に何が待とうと――荒れ狂う海の恐慌がそこにあろうと、暴君の如き『狂王種』が闊歩していようと、『魔種』なる御伽噺の化け物達が手ぐすねを引いていようと、謎の死病が蔓延していようとだ。そんな事はどうでも良かった。勇猛果敢たる海賊ドレイクを阻む、恐れさせる何者でもありはしない!
「本当にすまぬ……」
「怒りますよ、陛下。もう二度と言われなさるな」
罰が悪そうに苦笑したエリザベスに、そんな顔をさせてしまった事を後悔する。
吾輩が怖いのは目の前の女王の笑顔が自分の前から永遠に失われてしまう事、それだけだった。実際の所、海賊たる吾輩は『海洋王国の誇り』に興味はない。この国の未来を真剣に憂いている訳でもない。きっと最初から、ここに彼女が居る事が全てだった。
(……時間が無い。一刻も早く絶望の青を、いや、それより何より)
吾輩の『本当の目的』は絶望の青の攻略等ではない。
絶望の青は人智及ばぬ未踏領域である。吾輩が『財産の三分の二を吹き飛ばして』手に入れた秘密の海図にはとある記述が残されていた。
――絶望の青には希望がなる。
生命の果実は万病を癒し、永遠の命を与する秘薬である――
御伽噺の伝説だが目的が無いよりは、希望が無いよりは余程良かった。
吾輩は船団を率いて、何よりも優先して海図の秘密を解き明かす。
溺れながらに藁を掴む愚かと知っていても。
「……ああ、ドレイク。きっとまた、妾に素晴らしい航海の話をしてくりゃれ」
「全ては陛下が御為に」
力無く微笑んだエリザベスの手を両手で握り、それからキスを落とす。
是非も無い。それが億が一にでも愛しい彼女を救う術に繋がるならば!