「はぁ、はぁ、は――」
己が砂を従えて、カノン・フル・フォーレは熱砂を目指す。
しぶとく食い下がる追撃の尽くをかわし、最大の執念を以て。
心身にひびを入れる激痛さえ見ないふりをして『外の世界』を目指していた。
「は、は、は――」
脇目も振らず、全てを投げ捨てて逃げるのは――まるで『あの時』のようだった。
姉の顔も、あの人も顔も見たくはなくて……唯、みじめな自分を許せなかった『あの時』のままだった。
――何故、どうして、何でいつもこうなるの?
己を騙せない嘘に意味はないと言うが、カノンにとってその問いはまさにその愚問と呼べた。
掛け違えたボタンが元に戻る事等有り得ず、故にこれはその時から定められていた当然の結末だ。
自覚した罪、目を伏せてきた罪、復讐は本人には妥当でも――巻き込んだ数は知れない。
ならばこそ、罰は罰。やがて振り下ろされるべきだった断罪の刃が訪れたのが今夜だっただけに過ぎまい。
「――――」
不意に息を呑んだカノンの目の前に赤い炎が揺れていた。
まるでそれを待っていたかのように、そうなる事が分かっていたかのように。
『恐らく彼女は彼を求め、彼もまた彼女を求めていた』。
「クラウス……」
「……ああ、カノン。『随分と久し振りじゃねぇか』」
カノンの虚ろの瞳が映すのは在りし日の意地悪のその姿。
悲喜劇を殊更に否定する事は無い。
むしろその呼びかけを肯定してみせたのは今を生きる傭兵の感傷か、或いは憐憫か。
「見てみろよ、いい夜だぜ」
――ファルカウから外に出ないなんて馬鹿げてる。お前もたまには星位見ろよな――
遠い日に交わした言葉がカノンの中にリフレインした。
砂漠の夜の冷たい空気に抱かれて、満天の星が瞬いている。
夜の帳は鈍重な緞帳よりもずっと早く、彼女を迎えに来ているかのようだった。
「……じゃない」
「あん?」
「放っておけば、私なんて放っておけば良かったじゃない!」
その実――ルカによる致命傷を受けたカノンの認識と記憶は随分前から混濁さえ見せていた。
それは幸福か、はたまた不幸か。強すぎる感情は目の前の『クラウス』に爆発する以外の解を持たない。
「……っ、クラウスは姉さんと一緒で……どうせ私なんて、そうよ!
二人で幸せにやっていれば良かったじゃないの――!」
「そう出来ればどれだけ良かったか」
「……っ……」
「『俺はアレ以来、一度もリュミエには会ってねぇよ』」
「……………え?」
クラウス――ディルクの言葉にカノンの白い顔が引き攣った。
「嘘でしょ? どうして……二人共、好きで、私は砂の都で……」
「『砂の都で会った時』、約束しただろ。お前を絶対連れ戻すって。
そりゃ、お前だけとした約束じゃねぇよ。お前達姉妹とした約束だ。
……大の男がよ、好きな女とした約束を破れるか?
てめぇを慕う女を――そうでなくても友達を――見捨てたままで終われるかよ。
いいか、カノン。『エッフェンベルグの男を舐めるなよ』」
……砂の都が滅びた時、必死に手を伸ばしたクラウスの顔をカノンは思い出していた。
似合わない苦渋と見た事もない必死に満ちて、何時もの余裕さえ失った彼の顔を思い出していた。
――カノン、戻れ! 俺が必ず、お前を戻してやる――
その言葉さえ、カノンにはおためごかしにしか聞こえなかった。
――どうせぜんぶ、姉さんの為なんでしょう!?
自分自身が丹念にかけた呪いに縛られ、彼女はそうと聞く他は無かったのだ。
しかし――しかし。蓋を開けてみればどうだ?
『クラウス』はリュミエの元に戻らなかったという。
そして今、自分(カノン)を迎えに来たと言うではないか!
「……くら、うす」
目前の風景が目眩に揺れる。愛しい人の顔さえ滲む。
カノンは震える唇で呟いて、一歩、二歩と彼に歩み寄らんとした。
淡く微笑む『クラウス』は逃げない。カノンを迎えるように両手を開き、彼女はそこへ飛び込んだ。
抱擁は万感、こんな簡単な事で良かったのだ。
そんな単純な解で――或いは違う結末もあったのだろう。
「待たせたな」
懐かしいバリトンが甘やかに鼓膜を揺らす。
互いの息遣いさえ感じるその距離に、カノンはその両目を閉じた。
刹那は一瞬にして永遠になる。永遠は意地悪い程に早く過ぎ去り、結末はやはり最初から決まって居た。
唇を歪めて腕の中で震える小さな肩を見下ろした『ディルク』は啜り泣くカノンを見つめる。
大きく息を吐き出した彼は、淀みなく見事な技で彼女の背に銀色の星を突き刺した。
「……待たせついでに悪いが、もう少し待っててくれ。後で、爺さんと一緒に苦情は聞くから」
何処まで状況を把握出来たのかは知れないが――事切れたカノンの顔には穏やかな笑みが張り付いていた。
アルティオ=エルム、中心部ファルカウ。
『ザントマン事件解決』の報が飛んだのは然したる時間を置かない内の出来事だった。
幻想、傭兵、深緑に跨って世を騒がせた事件は『ザントマン』と『魔種』双方の死を以て解決。
顛末は深緑という国にとってみれば上々で――
しかし、その『魔種』がリュミエにとって如何なる意味を持つのか――それを知らない者は居ない。
「そうですか」と頷いたリュミエは後の事を供の者に任せ、自身の部屋に戻る。
「……」
静かに施錠された机の引き出しを開けた彼女は古びた手紙にそっと触れる。
――任せろ、リュミエ。カノンと一緒に必ず戻る。
「……つき」
――何て顔しやがるんだ、お前。
「……そつき」
――そうだ。そういう顔してろ、お前は――惚れた男を信じておけよ。
「うそつき……」
ファルカウについぞ戻らなかった彼はその生涯を通じて砂の都を滅ぼしたその『魔種』を追っていたと聞いていた。
音に聞こえた彼の活躍は深緑と傭兵、隣国のリュミエに届かない筈はなかった。
近くて遠い永遠の距離を置いてさえ、彼は常に隣りにいた。
「うそつき……!」
リュミエの言葉は全ての顛末を、この結果を責める調子に非ず。
唯、彼が――妹がもう居ない事を改めて確信した一人の女の慟哭に過ぎなかった。
クラウス・アイン・エッフェンベルグの手紙(ゆいごん)にはこうある。
――まずはすまない。戻れなかった事を心から詫びる。
だが、二度とあんな事は起こさせない。俺の団は、ガキ共はやがて国を興すだろう。
コイツはお前を、深緑を守る盾になる。刃になる。
まだ俺を信じてくれるなら、深緑と盟約を結びたい。
『エッフェンベルグの男は諦めが悪いんでな』。きっと力になる筈だ。
……ああ、堅苦しくなったな。何も末期に、こんな事を言いたい訳じゃねぇんだ。
愛してるぜ、リュミエ。綺麗な顔が拝めなかったのだけが心残りだがな。
何時かお前がこっちに来る事があるなら、今度こそお前に――
酷い男。意地の悪い男。あの愛は長い呪いで、少なくとも彼女にとっては永遠だった。
かつてカノンが『完璧』と称したファルカウの巫女はこの日、人生で初めて『号泣』する。
きっとそれは――最初で最後の出来事だった。