眼下には湾岸が美しい弧を描き、遠く水平線の向こうまで煌めく星と船舶を抱く紺碧が広がっている。
ここに潮騒の音は届かない。けれど二人――向かい合うバニーユ男爵夫人とアセイテ提督は、耳を澄ませるように瞳を閉じていた。
第三次グレイス・ヌレ海戦が集結し、戦火を交えた海洋王国と鉄帝国は講和を結ぶに至った。
皇帝ヴェルスは帰路に着き、両国の首脳部は戦後処理、そして『これから』の展開へ向けて慌ただしく動き出していた。海洋王国の重鎮であるバニーユ夫人とアセイテ提督にとって、戦中と等しいほどの仕事が舞い込んでいるのは想像に難くない。
しかし、確かに一秒一分を惜しむ戦後処理の最中とはいえ、心身忙殺の多忙を極める中で、僅かな時間を縫うように貴族の一人や二人がこうしてディナーを楽しむ事は、殊更とがめ立てされる云われもなかろう。
二人の前に並ぶフルートグラスは乾いていた。磨かれたクリスタルガラスは曇りなく、未だ一滴の酒さえ注がれていない。アルタ・マレーアは、かのガブリエル遊楽伯も遠く幻想から足を運ぶと噂される格調高いレストランだ。それもここは貴賓室である。頃合いを見計らったようにソムリエのサーブがありそうなものだが、耳の奥がざわつくほどの静謐は、きっとそれを許していない。
「海戦ではご活躍なさったそうですわね、提督」
「あら、バニーユ夫人こそ素晴らしい兵をお持ちではないですか」
前菜の一つも待たぬままわざとらしく静寂を破ったバニーユ夫人に、アセイテ提督は気のない世辞を返した。その言葉は『頼りにならない援軍』を派遣した事実を知るものからすれば皮肉にしか聞こえないだろう。
もちろん提督の活躍というのも同様。『わけのわからぬ言い訳』に終始し、挙げ句の果てに『海賊連合の旗艦と仲良く追いかけっこを続けた』と揶揄される向きもある。
二人の逆鱗に触れかねない話題ではある。だが不思議なことに、どちらにも舌戦を繰り広げる意図など、まるでありはしなかった。
「とは言え、実際の所を言えば――鉄帝の介入は予想外の事態ではありましたけれど」
「大局に影響はない、そうですわね?」
「あら、バニーユ夫人? 私を誰だと思っておいでですの?」
「出過ぎた口を利いてしまいましたかしら。私ったら、つい」
「いいえ、とんでもない。……『頼り』にしておりますわ」
これまでも、これからも――そう続けて。
……この会食について、奇妙な点は実は二つある。
一つ目。両者は海洋王国の重鎮であるという以外は、殊更の繋がりがあるとは思われぬ関係である。
アセイテ提督は自他共に認める強烈な女王シンパである。イザベラは海賊上がりの彼女を取り立て、可愛がり、宮廷や軍に根強く蔓延る差別意識や白眼視から彼女を守って来たのだから当然だ。
一方のバニーユ男爵夫人は亡き夫の属していたソルベ派の立ち位置を今日にいたるまで堅持している。鳥種系有力貴族の支持を広く集めるソルベからも一定の信頼を向けられている立場である。
つまり二人は『顔を合わせる機会はまあまああるが、政治的には全く逆につく二人』であると言える。二人は謂わば代理戦争を行う、ないしは行わされる間柄であり、先の話ではないが、戦後処理の一秒が惜しい時間帯に優雅な会食を共にする相手としては些か不自然さが残る関係なのである。
二つ目は、そういった諸問題を無視したとしても。
あえてこんな場を設けたにしては、些か他人行儀が過ぎる態度を挙げる事が出来るだろう。
けれどそんな些末を指摘する者はなく、そんな機会もありはしないのだろう。
海洋が誇る高級レストランの貴賓室は血の滴るような羊のステーキの味わいは言うまでもなく、その防音性も随一である。この場には無粋な追及をする者も居なければ、仮にそういった輩が潜り込もうものなら、軍隊並みのお出迎えでもてなしを受けるとは都市伝説めいた『定説』である。
閑話休題。
ようやく運ばれたアペリティフに手をつけることもなく、アセイテはまるで弾まぬ会話を繋げる。
「紆余曲折はあったものの……そう、現実には大抵それ相応の問題がつきものです。
ともあれ、これで絶望の青に出立する準備が整ったのは間違いありますまい?」
「この国の、そして私たちの悲願――ですものね。こうなったのは良かったような、悪かったような。
少なくとも『あの方』の御機嫌は大層斜めでしょうねぇ。お叱りの言葉は今夜かしら、明日かしら。
『何をしているの』とか。『これだけの好材料があって』とか――」
愉快気に『誰か』の口振りを揶揄したバニーユはまるで慈しむような、柔らかな微笑みを零した。
その美しい顔(かんばせ)に乗るのは慈愛であり、期待であり、淫靡であり、軽侮ですらあった。
「――結局、舞台は絶望の青を望むのでしょう。
物語の大きな潮流は――彼等は、ねえ。どれがお好みかしら?」
胸いっぱいに抱いた希望が絶望に変わる時、どんな声を上げるのかしら?
嗚呼、いやらしい。いやらしい。
それとも、クライマックスは――もがき、あがき、苦しんで。それでもなお掴み損ねた時かしら。
彼女は唇を釣り上げる。ソルベ・ジェラート・コンテュールは自身を信頼しないと言っていた。あの聡明なる貴族派筆頭の予感は愚かにも深海へと自ら身を投じるようなものであるというのに。
「私は同じです。何時でも同じ。持てる全てをあの――親愛なる女王陛下に捧げましょう」
真珠のような美しい瞳に。滑らかな肌に。豊穣の海そのものであろうかのような、かの女王陛下に。
かつて私が頂いたものを。
待望が永遠に潰える、その瞬間を。
どれだけ願っても、想っても叶わない現実を。
すぐそこにあるのに手を伸ばしても届かない――胸を引き裂くばかりの失望を!
アセイテはうっとりと目を細めた。イザベラ・パニ・アイスは自信を信頼していると言った。あの聡明なる女王陛下は何処までも優しく大海の如き慈悲を抱いている――つもり、なのだろう。
いや、間違っていない。間違いでは無い。気高い女王の潔白は決して偽り等ではない。
もし仮に余人が陛下を侮辱するような真似をしたら、神にだって弓を引いて見せる――
だが、アセイテのそんな気持ちは二律相反の迷路を決して、決して逃れ得まい。
「皮肉ですこと。姿さえどちら付かずの貴方と手を取り合うだなんて――ねえ? 『セイレーン』」
「こちらこそ。愛だ恋だと燻るだけで指を咥えて居るだけの童女と踊るだなんて。『アプサラス』?
けれど、やることは決まっているもの。あの広き海。その深き場所へと引き摺り込むの」
叶わないなら捨てればいい。そんなもの全て消してしまえばいい。
皆に無いのなら、皆が失うのなら、それは全て公平だ。平等だ。殊更の痛み何て何処にも無い。
それがいい。一番だ。『どうせ自分だけが叶わないというのなら』。
「そして――『あの方』へ。
捧げましょう。最後には捧げましょう。
水底に蟠る澱の如く、寂しくないように全ての船を墓地へ沈めて」
――妬みと嫉みのあらゆるを。昏闇の灯台に、水底の救いに、我々の絶望の案内に!
極上の料理と景色のマリーアジュには目もくれず、二人は酷く歪に仄暗く――
感情とは裏腹の実に華美なる笑顔を見せるばかりだった。