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死ニ到ル病

 粟立つ肌と明滅する視界。
 その瞬間、見た――見てしまった光景を私は生涯忘れまい。

 吐き気がする。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、胸の奥から言葉にもならない嗚咽がせり上がってきた。
 分かっていた。分かり切っている。私は最初から理解していた筈だった。
 姉さん(リュミエ・フル・フォーレ)はファルカウの巫女だ。
 深緑(アルティオ=エルム)の誰にも慕われ、尊敬される完璧な巫女なのだ。
 とても綺麗で、誠実で、頭が良くて社交的で――代替品(スペア)の妹(わたし)とはまるで違う。
 一体誰があの姉さんを好きにならないでいられるのだろう?
 一体誰が姉さんではなく私を選ぶというのだろう?

 有り得ない。
 有り得ない。
 そんなの絶対に有り得ない!
 産まれた時から一緒だった。『私には姉さんが居て、姉さんが居なければならなかった』。
 尊敬する姉さん! 何時も素敵な姉さん!! クラウスに選ばれた姉さん!!!

 だから、だから――
「……っ……!」
 最初から諦めていたのに。
 多くは望んでいなかったのに。
 願いはささやかで――ううん。それより何より。
『姉さんだけを選ばないでくれたら、それだけで良かったのに!』。
 感情は矛盾そのもので、世界は地獄のようだった。
 ぞわぞわと自身を突き動かす感情の正体を私は未だ知らず。
 自分が自分でなくなるような感覚、突き抜けて冷え切った感情が他人事のよう。
 その癖、消えてくれない強い想いの残り香が、相反して酷く気持ちが悪かった。

 ――離れないと――

 くらくら眩暈を押し殺し、辛うじてそれだけを考えた。
 この場所に私は居てはいけない。クラウスに――それ以上に姉さんに知られてはいけない。
 それだけは許せない。せめてそれだけは『許されたい』。
 大丈夫、と必死に自分に言い聞かせた。

 ――アンタ、たまには笑えよな。

 ――必要なく笑ったりしません。私の表情筋は怠け者なんですよ。

 ――成る程、アンタは世の中が余分で出来ている事を御存知じゃない。

 ――何ですか、それ。

 ――今のアンタの顔を言う。つまり、そういう事でいいだろう?

 クラウスも言っていた――私は仏頂面が得意じゃない。
 押して殺して凍らせて、カノン・フル・フォーレのままで居ればいい。
 からかうクラウスを如才なくいなして、姉さんと普通に接すればいい。
 大丈夫、出来る。上手くやるから。ごめんね、姉さん。
 身を翻して場を離れようとしたその時に。

 ――ぱきり、と。

 足元が小さな音を立てた。
 足元を見やれば折れた小枝。鼓動が跳ね、私はゆっくりと――『二人の方へ視線を戻す』。
 そこには――困った顔で私を見やる姉さんが居た。
 全てを察したように、その表情に憂いと驚きを乗せた姉さんが居た。

 ああ、もう、だめだ。なにもかも――

 駆け出した私の背中を姉さんの声が追いかける。
 何を言われたのかは分からない。聞こえ過ぎる両耳を塞いで、ファルカウを飛び出した。
 心臓が爆発しそうになる位に迷宮森林を駆けて、駆けて。
 自然と零れ落ちる涙に心底から絶望した。
 唯の一度にもう一切が駄目になったのは故郷で、姉さんで、すきなひとだったから。
 気付けば日は暮れ、宵の帳が森に降った。
「……夜……」
 古木に寄りかかり、木立の切れ目から見た月は青く冷たくまるで私を嘲り笑っているかのようだった――

 その後、ファルカウで――姉さんとクラウスの間で何が起きたかは知らない。
 ……唯、あの場所を飛び出した世間知らずの私が『ザントマン』に捕まったのは事実だ。
 悪徳を煮詰めた砂の世界は『楽園の東』。奴隷の首輪を掛けられて、厭という程汚されて。
 綺麗な思い出も、私が私であった頃の何もかも――くすんで枯れてしまったわ。
 頭の中に響いた『その声』を聞いた時。私は何も抗わなかった。
 何もかも、世界の全てが憎くて、怖くて。
 姉さんも、クラウスも、ファルカウも、悪くない事は分かっていたけれど許し難くて。
 砂の都を痕跡すら残さずに『沈めた時』。私に手を伸ばしたクラウスに、応えるさえ出来なかったわ。

 嗚呼、憎い。やっぱり憎い。
 どうして貴方は私を追ったの?
 あの森の奥で、姉さんと『短い永遠』を過ごすって言ったじゃない?
 それなのに、どうして貴方は砂の都にやって来たの。
 どうして私に「戻れ」と云うの!?

 ――嗚呼、分かっている。
 私は莫迦だ。きっとこの世界で一番の莫迦なのだ。
 何を捨てても、何百年の時を重ねても。
 あのバリトンで「カノン」と呼んで欲しい。ゴツゴツの手で頭を撫でて欲しい。
 嘘でもいいから「笑った顔の方がいい」って――もう一度だけ言って欲しい。
 ……擦り切れた、ずっと昔の思い出が色彩を失ってくれない。
 あんなにも焦がれて、あんなにも苦しくて、何もかもが嫌になって。
 きっと彼は――クラウスは私にとっての死神だったのだ。
 澱の世界は粉微塵に砕かれて、私はもう二度と元には戻らない。
 最悪に最悪を重ねて、絶望に絶望を重ねて。私は今日も、きっと明日も己が愚かを謳うだろう。

 ――夢を見たなら危ないよ。外の世界は嘘ばかり。
   優しい嘘に騙されて、全ては砂に呑まれるよ。砂の都は呑まれるよ。
  
   夜の森は危険だよ。さっさと眠ってしまいなさい。
   そうしないと眠たい砂が降ってきて『ザントマン』に攫われてしまうよ――

 ……朽ちても、果てても、夢を見る。
 都合の良い揺り籠の中で、貴方という檻(ケージ)の中で私はきっと夢を見る。
 カノン・フル・フォーレは、もう絶対に先の紡がれない熱砂の夢をループする――

※<Sandman>事件の報告書が次々と届き、情勢が大きく動きました!


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