それはそう――『廃滅のエル・アスセーナ』。
まるで不定形の空に安寧等訪れない。
この海の支配者と同じ位に気まぐれで、同じ以上に嗜虐的な荒天は、こんなパーティには似合いだった。
凄絶なる稲光が時折瞬き、夜空を赤々と照らす。
遅れて轟く耳を劈くような唸りと止まぬ海鳴りを祝辞として、一同は杯を煽るのだ。
この日選ばれた主役――舌先をくすぐる液体(ビロード)は、ラムでなく、上等な赤の葡萄酒である。
干した果物とスパイスのフレーバーは、廃滅の海と混ざり合い――最悪だ。
閃くように宙を舞う無数のグラスが、酒を満たすことは二度とないだろう。
なげうたれ海を揺蕩う銀光は、さながら星を溶かし込むように煌めいている。
続いて闇夜に閃いたカットラスが、幾本もの縄を切り落としてゆく。
海中へ落ちる木箱には食料や水、酒類等が積まれているのだが、これで殆どが放棄された事になる。
それは無敵戦列艦隊アルマデウスに伝わる、決戦必勝の儀式であった。
無駄な積み荷を最小限までそぎ落とし、残された道を凱旋か撃沈か、二つに一つとする訳だ。
旗艦エル・アスセーナ号の甲板に居並ぶ者達は、いずれも言葉一つなく。
腹を押えている者、呼吸の荒い者、いずれも一様に目が血走っている。
廃滅病に罹患しているのであろう。それは退屈な事実に違いない。『あのイレギュラーズを含んだ多くの挑戦者達も似たり寄ったりの状態の筈だから。何でも公平に一緒くたにしたがるアルバニアがこの艦だけを見逃す事等有り得ない』。
「おかわいそうに」
同情的な言葉とは裏腹に、『セイレーン』セイラ・フレーズ・バニーユ夫人の表情は軽侮に満ちていた。
気品あるその美貌を歪め、喉をくつくつと鳴らす彼女からは唯の悪意と嗜虐が覗く。悪党なのだ、この女は。先天的なものか、後天的に作り上げられたものかは別として――今日この瞬間、この夜に。己をも蝕む『廃滅』を目の当たりにしてもその全てさえ嘲笑してしまえるような。
「ええ、本当に。『おかわいそう』」
「それはどなたへ? どういう意味で?」
そして、そんな彼女に応じて口角を上げた『アプサラス』トルタ・デ・アセイテ提督も並の女では無い。
彼女が抱き寄せた部下の軍服は腰を絞り、フリルやレースをふんだんにあしらった可憐なもの。この装いは多分に趣味的である。
「決まっているでしょう」
いつになく上機嫌なセイラは、女の晒した劣情(こいごころ)を見ていても冷笑を浮かべることも無い。
愛だの恋だの欲だの情だの、ああ、そんなもの。他人等どうでも良い。己が望みは遥か以前よりとうに無意味。傍らに居るだけでよいと願った相手は海屑と化し水面の向こう側へ、『自身を愛してくれた屑』はその身を怨念に魅入られ無惨な姿でこの海を彷徨い歩いている。
セイラは『海洋王国』が嫌いだ。この海の制覇を掲げ、無理難題に好き好んで挑み続け、幾重もの命が散った事を彼らは何とも思っても居ない。それさえ、必要な犠牲であったと考えているのだから救えない。『英雄譚』の枝葉にさえならない一行に刻まれた人生を、運命を、愛を、哀しみを彼等はきっと知らないままだ。
(ええ、そうでしょうとも。だからこそ――)
そんな、反吐が出そうな程に甘ったれた――無論、自身を含む。否、まず自身こそを灼く――怒りは、大嫌いな彼らが『強欲』を屠った英雄に頼ると知った時、感じた憤りは彼らが『廃滅』に罹患した時に喜びへと変貌したのを覚えていた。
『今回の大号令は今までよりも、そう。半端に上手くいってしまうに違いない』。
そして、そうなれば『必要な犠牲』は跳ね上がる。
海洋王国は己を自縄自縛の呪いから逃れ得ず、簡単にこの海の先を諦めきれないだろう。
そうなれば、次々と。次々と。『退屈な一行』はその厚みを増していく。
――仕方がなかった。
――悲しい事だが、立派だった。
――力を落とさず。君がそんな顔をするのは――も望まない。
セイラの顔はこの時、自身すら自覚しないまま、悪鬼のように歪んでいた。
何人たりとも、そう、セイラもトルタも逃れられぬ病。それに蝕まれかの英雄らも朽ちていく。
(そして、その儘――『王国』ごと蝕まれて、苦しみぬいて消えるがいい。
その布石として『旦那様』は、愚かな怪物としてこの海で『駆逐』されるだろうから。
ああ、愉快だ。愉快で愉快で仕方がない。なんて、なんて幸福か――)
セイラは『はしたない』己の愉悦、己の妄想に一つ咳払いをした。
淑女たるもの、慎みを忘れてはいけない。
例えそれが絶望の海に揺蕩う、気品のなっていない海賊船の上であろうとも。
「ああ、そうだ。ミロワールにもお願いしておかなければいけません。
私たちの幸福(しあわせ)を開けてあげなさい、と。
ふふ、それに、リーデルも喜ぶでしょうね。きっと笑ってくれるでしょうね?
愛しい人は水泡となってきますよ――と。教えてあげなければ」
「つくづく面倒臭い女ですこと」
インクを零したような笑みを浮かべたセイラの表情を眺めてから、トルタは嘲るように鼻を鳴らすと部下達へ作戦の説明を始めた。
完全なる停滞と現状維持を望む冠位魔種アルバニアは、その権能『廃滅病』(アルバニア・シンドローム)によって、無謀な挑戦者達に必滅の運命を与えた。だが、絶望の青攻略を掲げる海洋王国とイレギュラーズの連合軍は、遂に橋頭堡アクエリアを制覇した。彼等の破竹の進撃は止まる所を知らず、この海の後半までをも蝕んでいる。
元々アルバニアは深海でその無為無策を眺めていれば、やがて彼等は恐慌を来して大号令は瓦解すると踏んでいたのだ。無謀な勇者の重ねる幾多のむなしい努力は、その一切が報われずに潰える事になる。時間切れという最も挑戦者の心を折れるであろう戦略を重視し、直接対決を回避してきたアルバニアだが、その目算は些か当てが外れていると言わざるを得ない。
――もしも彼等がその命すら省みず、この海の踏破を決断したならば――
その畏れは最早空想ではなく現実のものとなっていた。
廃滅病のリミットより先に、この海を越えられてしまったのならば。その先で幾ら滅びたとて意味がない。
アルバニアは、死せども何事かを成し遂げた者達に、永遠に嫉妬することになる。大敗北だ。
冠位魔種のアイデンティティにさえ触れるそれは『決して許して良い結果ではない』。
なればこそ、彼は決断をした。エル・アスセーナが必勝の儀式にかかったのはその為だ。
結論から言えば簡単だ。アルバニアの命令は『決戦』。
『絶望の青』、果て無い『後半の海』にはアクエリアに加えもう一つ難所がある。
アルバニア麾下の魔種勢力が本拠点とするここ、フェデリア海域は敵を迎撃するに最も適した場所である。
こんな場所でやり合う事こそ不本意だが、最早詮無い。
ここまで追い込まれたのなら――この場を選ばない理由は無い。
「では、そのように」
「イエス・マム!」
「イエス、マイ・ロード」
「イエス・ユア・エクセレンシィ」
トルタは旗下のキャプテン達にいくつかの戦略を提示し、賛同を得ていた。
成すべきは単純なこと。交戦して撃破する。ただそれだけだ。これまでと何ら変わらない。
大きな違いは相手が『海洋王国軍』と『イレギュラーズ』であること、そしてトルタの推測では『大号令に一枚噛んだ』とされる鉄帝国の鋼鉄艦隊が援軍として現れるであろう認識を共有している。
こちら側の軍勢で、海戦を『まとも』にやれるのは、トルタ達をおいて他にないだろう。
どうせ他の魔種共は勝手に動くに違いないが、力任せのバカ共では鉄帝国を抑えられる保証等無い――
一先ずの確認、作戦行動の指示を与えたトルタはいの一番にセイラを追い払った。
見られるのが嫌いでもないが、あんな陰湿な女の視線は御免被るというやつだ。
船首に腰掛けたトルタは、抱き寄せた部下の頬へ手のひらを添える。
壊れ物でも扱うかのように。決して満たされない女(だいたいひん)を至高の宝石のように扱うのだ。
「あなたは……そうね。なんと言ったかしら?」
「リンダにございます」
「そう。今日は貴女にするわ」
「光栄です。マイ・ロード……」
いくら潤んだ視線を交えても、その手から温もりを伝えても。トルタはリンダを見ていない。
細い手首を掴み上げると、食い込む爪から赤色が滴った。
(本当にこうしたいのは、貴女です)
骨が軋むほどに抱きしめれば――耳元で響く声は幼い自分の声だった。
私へ初恋をくれた貴女を、傷つけて差し上げたい。
私が忠誠を誓った貴女を、めちゃくちゃに壊して差し上げたい。
ああ、女王陛下。
戦勝の暁に、貴女をこの海へお連れしましょう。
廃滅の宵に、貴女と共にこの海で溶け合いましょう。
無敵艦隊アルマデウスを手向けの花と致しましょう。
私は決して満たされない。私は生涯満たされない。
唯、一輪の薔薇に恋をしたまま――
――この戦列艦エル・アスセーナこそ、『我ら』の墓標となるのです。
※何だかヤバイ奴等のオンパレードなのです……