――彼は酷く疲れていて、彼は何時も満たされない。
鉛のように重い意識が水底から浮かび上がってくる。
他我を己がもののように求める事は不合理であり、不条理であり、往々にして無理難題である。
それが決して何者も侵せざるある種の『神聖』であるというならば、敢えて語るまでも無いだろう。
「……」
「……お早くないですが。おはようごぜーます?」
「……ああ。悪ぃ。長く寝てたな」
「腰を悪くするでごぜーますよ……」
目を開けたレオンの視界に飛び込んできたのは自身に視線を注ぐざんげの顔だった。
長い黒髪が下に垂れ、彼の頬に触れていた。
彼女を見つめたレオンは真っ赤な西日に開けたばかりの目を細めていた。
どうしてこうなったかは細かく覚えていなかったが、どうせ大した意味は無かったんだろうと考える。
「今日は『冠位強欲』についての報告と聞いてたですが――また寝不足をしたでごぜーますか」
「不摂生だな。案外早死にするかもな」
僅かに曇ったざんげにレオンは皮肉めいた答えを返した。
誰が為の我か――問い掛けは、大人になった彼にどうしようもない位の間違いを教えている。
どうしようもない位の諦念を、それでも捨て切れない妄執の意味を教えていた。
(改めて、夢に見なくても分かってるよ――)
レオンは、ざんげの膝の上で長い夢を見ていた気がした。
少年時代、空中神殿、ざんげ、夏。出会いと決別、決意とそれから――
(――まるで人生のハイライトだね)
思い出の中の色彩は未だ鮮やかなままだったけれど。
夕日差す空中神殿にあの頃の少年は居ない。
ここに居るのは疲れ果てた大人が一人。変わらない少女が一人。
人並み外れた経験をしてきたのは確かだろう。
現役と名乗れるかは微妙だが、多くの冒険も、事件も超えてきた自負はある。
たった一つの願いを叶える為に総ゆる努力を惜しまなかった心算である。『蒼剣』も『ローレット』も子供の望んだ玩具に過ぎず、それは玩具と言えない程に結果を出したけれど、玩具であるが故にきっと。『まるで届きはしなかった』。
磨り減って、磨り減って、磨り減って……
長い、長い繰り返しは二十年。
あの時――エウレカが死んだ時、ふと考えた。
『永遠のざんげ』と比して、自分にはどれ位の時間が残されているのだろうか?
パンドラの敵だという魔種がいつまで経っても現れなかった時、ふと考えた。
鍛え上げた自身の剣は果たして――振るう機会を持つのだろうかと。
レオンの名が混沌に響くにつれ、ローレットが世界的ギルドに育つにつれ、歪みは大きくなっていく。
何事も起きなかった『全盛期』。レオンの気持ちと裏腹に平和過ぎた世界。現状維持の『神託』。
無為に無為を重ねた――ゴールの無いその時間は少年にとっては長過ぎた。
たった一人の少女の為の戦いを望んだ彼に残酷過ぎた。
無言で起き上がった自分に小さく「あ……」と漏らしたざんげの顔を見たくない位には冷酷過ぎた。
今になって『始まりの日(そのとき)』が訪れたのは運命の皮肉であり、正しく望外でさえあるのだろう。
レオンが待ちに待ったこの時は、確かに歯車を動かしたのだから。
(感謝しかねぇよ、イレギュラーズ。でも、それでも)
一言で言い表せない感情は歓喜であり、嫉妬でもあるのだ。
どうあれ手違い(バグ)という枷から逃れる事が出来なかった彼が覚えずにはいられない、酷く人間的な。
憎いのだ。どれだけ諦念を重ねても、突きつけられる『特別足り得なかった自分』という現実が。
何処までも青い空が、無限の世界が――どうしようもなく狭くなったのは一体何時からだっただろう?
「倒してやったぜ。……当然、俺じゃない、うちの連中が、だが。
『冠位強欲』ベアトリーチェ・ラ・レーテは消滅したものと承知してる。
……ま、それは俺よりオマエの方が詳しいかも知れないがね」
「はい。消滅間際に大きな力が観測されたのが気になるですが――
確かに戦いを経て『滅びのアーク』は沈静化している状態でごぜーます。
少なくとも、今現在私が感知する範囲には大きな危険はねー……と思うです」
コクリと頷いたざんげにレオンは言う。
「それなら、これで御終いだ。ネメシスはこれから復興に向かうだろう。
色んな問題はあるだろうが、その問題すら。特異運命座標に関わればパンドラを増やす材料になるだろう。
だから、問題は無い。ローレットはパンドラを溜めながら――
他の魔種に、次の冠位に相対する。それで間違ってねぇよな?」
「……はい」
「今回はありがとよ。パンドラを使うのはオマエからすれば嬉しい話じゃなかったかも知れないが――
バックアップは助かった。色々と世話をかけるかも知れねぇが、次も頼むぜ」
大きく伸びをしたレオンはそう言うと首を鳴らしてから踵を返した。
やり取りは淡泊であり、かつてのそれとは全く違う。
レオンが神殿を訪れる理由も、パンドラを集める理由もかつてと何一つ変わっていないのに。
彼の背中を見るざんげの美貌も、憂いを思わせる無表情も何一つ変わっていないのに。
ただ、そこには長過ぎる時間だけが横たわっていた。
「……レオン」
「あん?」
呼び止めたざんげと振り返ったレオンの間に微妙な空気が流れている。
『もう彼を見上げる事しか出来ないざんげは、曖昧な顔をしたレオンの頬に手を伸ばした』。
――レオンは
――あん?
――どうしてここに来るのです?
――来ちゃ悪いかよ。
ざんげの脳裏を過ぎったのは遠く、遠い何時かのやり取り。
彼女が望み求めたのは無意識の内の幻影(デ・ジャ・ヴ)だったのかも知れない。
「レオンは」
「あん?」
レオンは。
「……どうして、ここに来なくなったのでごぜーます?」
問いは奇しくもかつての逆だ。
「ハ――」
ざんげの問い掛けにどうとでも取れる破顔をしたレオンは言った。
「――大人は、こんな所。用も無く来たりしねぇよ」
大人は自分で自分に嘘を吐く。
その言葉を吐く他は無かったのは、レオンが疵を帯びたから。ざんげが少女の侭だからである。
それは些細なやり取り、吹けば飛ぶような刹那の一幕。
ざんげの伸ばした手は届かずに、レオンはそれでも諦めない。
斜陽の中の二人を、遠い過去より咲いた白い花(エーデルワイス)だけが見つめていた。
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