ゼシュテル鉄帝国とネオ・フロンティア海洋王国が、後の世に第三次グレイス・ヌレ海戦と伝えられる事となる大規模戦闘を繰り広げている、丁度その頃――帝都スチール・グラードでは重く錆びた音を立てながら、また一つ扉が開こうとしていた。
些か神経質そうに、されど同等に無骨に不遜に。
時計の針がかちこち、かちこちと冷淡に几帳面な音を立てている。
宮殿は国の象徴。されど、ゼシュテル鉄帝国という強国の象徴としては些か飾り気の無い――豪奢と呼ぶよりは『如何にもな質実剛健を思わせる』調度の数々は、全くこの国の宮殿らしいと呼ぶべきなのだろう。
衛士より幾分かマシな応接間に通されてから数十分。
そんな一室でクラースナヤ・ズヴェズダーの司祭イヴァンは、眉根を寄せたまま外の雪を眺めていた。
「待たせたな」
低い、地鳴りのような声であった。
「イヴァンよ。わしが報告を預かるのである!」
背後からかけられた声に、イヴァンは慌てて居住まいを正す。
振り返った彼の視界に居るのは無数の勲章をぶら下げる、老いて尚、些かも覇気を減じない『鉄宰相』バイル・バイオンその人である。
「そう言えば、貴様とも随分久しいな」
「ハッ、閣下もご壮健の様子、何よりでございます」
……この老人の前に立つと流石のイヴァンでも、多少は気も引き締まるというものである。
鉄帝国でまがりにも政治に関わる者で彼の功績を理解しないものはない。最強優先(どくとくのルール)で謂わば雑に帝位が変わる事もあるゼシュテルにおいて、半世紀以上もの間、この国の政治のトップを司り、歴代の皇帝に仕え、常在軋みだらけの帝国という政体を辛うじて支える屋台骨――『鉄宰相』バイル・バイオンはともすれば戦闘力ばかりが重視されるこの国において数少なく大いなる尊敬を集める大宰相なのだ。
『たとえ彼が黄金双竜やその他、名だたる大政治家達に比べれば凡百極まる政治能力しか持っていなかったとしても、このゼシュテルにおいて凡庸な文官を長らく続けてきた事それそのものが砂漠に森を作ったようなものである』。
「して、イヴァンよ。今日はどんな話を聞ける? わしはそう長居出来る身の上ではないぞ。
陛下の凱旋勝利を待つ身にも、仕事は山積しておる。
同様に貴様が参った懸念事項も然りであろう」
「ハッ……!」
バイルは幾分か皮肉に笑うと、椅子を引こうとするイヴァンを制した。
この老人は文字通り、全く休まない。畑違い等無いとばかりに内政から諜報まで何でもこなしてみせる。
こなせなくても実行する。戦場における『献策(しょうめんとつげき)』に誰も何も言わないし言えないのは……まぁ、この場は愛嬌としておこう。
「これは、失礼致しました。では……」
「……して貴様は何があるとみる?」
せっかちな老人はイヴァンの言葉を遮るように食いついた。
バイルが求めたのは、かねてより帝国上層で問題視されていた鉄帝国首都のスラム『モリブデン』で発生する一連の事件に対する情報である。イヴァンが宮殿に召喚されたのはその途中経過を報告する為であった。
おさらいするならば、モリブデンでは現在、軍主導の都市開発計画が進行しており、その方向性自体は軍民問わず大方歓迎されている。だが、多くの場合と同じくこの手の施策には政治と利権が絡んでくるものだ。帝国らしいと言ってしまえばそれまでだが、些か強引な地上げを発端に巻き起こった抗争は徐々に激しさを増している。更にこの所、事態にきな臭さを強めている要因が『人さらい』である。軍の一部がモリブデンの地下闘技場に出入りしているといった噂がまことしやかに流れており、今の所軍部もこれを完全に否定する材料を持てていない。
麗帝やら守護神は相応に人道的な人物だが、興味や得手にその手の話があるかと言えば別だ。
そこで『我等が賢明なる宰相』バイルはイヴァンを通じ、先んじて一件の調査を任せていた訳だ。
「臭いが……」
「うむ?」
「悪臭と言えばいいでしょうが、特有の何かを感じざるを得ません」
そう応えたイヴァンは言わば、クラースナヤ・ズヴェズダーと軍とを繋ぐスパイのような役柄を担っているのである。
「まだるっこしいのう。では問おう。その心は?」
「幾つか――『勘』を裏付ける報告が可能です」
「ほう!」
老人は片目をぎょろりと見開き、イヴァンに続きを促した。
第一に――大司教ヴァルフォロメイが皇帝陛下に謁見を求めていること。
「新年早々、凱旋の祝いに続けて坊主の説教とは、こりゃ愉快痛快山椒の木である!
陛下はさぞ嫌がる事であろうなあ! わしもそれには大賛成じゃ!」
バイルは禿げ上がった額をぴしゃりとやると、大口を開けて笑った。
第二に――一連の事件で軍部に秘密裏にマークされているショッケン将校は、恐らく鉄帝国地下闘技場に眠る『何か』を狙っているのだと考えられるふしが見られたこと。つまりこの場合の問題は『ショッケンが私的にそれを狙っているのか、鉄帝国軍人として公益に叶う目的に根差しているのか』である。
「……真っ当な目的なら隠蔽している事自体が奇妙ですな。
個人的にはあまりいい臭いを感じない、とは先に述べた通りです。
奴めはやはり、個人的に何かの『力』を――」
鉄帝国の領土――時には街中、時には凍土の下――には時折物騒な遺物が眠っている事もある。
そして野心を秘めた鉄帝国の軍人が時折、過ぎた『おいた』をするのも又伝統である。新鮮な驚きは無い。
本件の問題は――
「成る程、成る程! では彼奴めの狙いは、『古代の呪い』であろうな!」
「……は?」
――バイルの明瞭過ぎる結論がとんでもなく物騒な方角に振れた事であった。
眉をひそめたイヴァンにバイルはとんでもない事を語り出した。あの辺り――スラム一帯の地下には帝国の古代文献によれば歯車城『モリブデン』と呼ばれる兵器が眠っているとされているという。
「臭う臭う。お伽話だと思うておもったが――よしんば真実でも『他者の生命を燃料に変えて動く怪物を稼働しようと思う愚か者』がおるとは思っておらなんだ。
呪いに朽ちたガラクタに気を入れようとするならば――はて!」
文献の情報。抗争となる程の強引な地上げ。そして人さらい。人命を喰らうという『モリブデン』。点と点を線で結ぶのならば、この古代兵器に対してショッケンが知られざる何かを掴んだと見るべきではないのか。
眠らせておけば良かっただけの呪いを掘り出そうとするなら、彼は。
「……先んじてショッケン一派を制圧すべきでは?」
「坊主に政治は分からぬか! ショッケンは軍部に食い込んでおる。
どうせ良くて逃げ遂せる、悪ければ暴発するが関の山よ!
彼奴めもおらぬがな、今は陛下も帝都におらぬ」
しばし続いた沈黙を破ったのはバイルであった。
「つまる所、本件は『現時点においては』他言無用のこと。貴様は調査を継続するがいい!」
「ハッ!」
――宮殿に背を向け、イヴァンはスラムへと歩き出す。
ひどく寒い夜だった。
司祭服の襟を寄せ視線を上げると良く見知った少女いるではないか。少女は膝に手を置き、必死に肩で息をしている。
「ラウラ……?」
呼びかけに気付いた少女は顔を上げると、イヴァンの胸に飛び込んだ。
「あそこに行かないで、お願い!」
ああ、きっともうすぐそこ――複雑に絡み合う、運命の歯車は動き出すのだ。